月刊基地moratorium

文章の置き場

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ラブコメ主人公の書き方で思ったこと。愛嬌があったほうが感情移入できる。

 タイトルそのままです。

 ラブコメ主人公のキャラ造形において、愛嬌というのはとても大事だと思うのです。

 ラブコメというのは俺TUEEEものと違い、主人公に完璧さを求めません。むしろ完璧超人の主人公よりも、どこにでもいる平凡な冴えない男子高校生が好まれる。それはそのほうが読者が感情移入できるからであり、そうすることで読者は主人公の視点からヒロインと交流できるからだと思います。

 完璧な人間などいない、ということを前提に据えると、読者がより感情移入できるために、ラブコメ主人公に必要とされるものが分かる。そしてそれは、愛嬌だと思う。

 愛嬌、――つまり不完全なところ、欠点、そういったものです。

 ラブコメ主人公が肝心なところでボケたり、バカやったりすると「なんだこいつは間抜けだなあ」と読者は楽しい気持ちになる。そしてその欠点に共感して、読者は主人公のことを自分のことのように思えてくるようになる、そういったことがラブコメ主人公には求められると思います(当たり前のようなことですが)。

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 ではどうやってラブコメ主人公に愛嬌を持たせるか。

 それは冒頭で主人公に失敗や恥ずかしい思いを(あくまでコメディ的に)させればいいのではないか、と思い至りました。

 例をあげます。

 

・『エロマンガ先生

 エロマンガ先生でいうと、和泉マサムネのサイン会の一件。序盤の序盤で、正宗は自分の汚い小学生並みのサインを周りに、あまつさえエロマンガ先生(=メインヒロインの砂霧)にまでバカにされています。この出来事を描写することで、一見自立しているように見える正宗の子供っぽい一面が見えて読者は安心することができます。

 

・『わたしたちの田村くん

 ちょっと古いラブコメなので知らない人がいるかもなので軽く紹介すると、あの『とらドラ!』の作者の竹宮ゆゆこ先生のデビュー作です。田村くんと癖のある二人のヒロインによるおかしくてちょっと切ない王道ラブコメです。おすすめです!読んでない人はぜひ!

 さて、そんな田村くんの愛嬌あるシーンは冒頭の冒頭、プロローグの自己紹介の場面にあります。鎌倉時代大好きな田村君が武士の真似をして自室で竹刀を構えて「我こそは田村雪貞なり。いざ、仕る!」と小声でつぶやいているところを兄に目撃される、という出来事から物語は始まるのですが、田村くんはその出来事を『きゃー、と叫びたかったのだ。』と回想していて、そのリアクションからも、これまた愛嬌のあるキャラだと我々読者は確認することができます。

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 他にも、なにかこれといった出来事がなくても主人公の愛嬌を示すこともできます。

 台詞や地の文から、愛嬌を醸し出すのです。これも例をあげます。

 

・『妹さえいればいい。

 主人公伊月の妹バカが印象的なこの作品、やはり序盤で伊月の愛嬌が示されています。

 この作品の始まりは伊月が書いた妹小説から始まりますが、この妹小説が本当に頭おかしい。妹は卵を産むわ、主人公は妹の脱ぎたてパンツ食うわ、もはや狂気。でもこれが返り返って作者伊月の愛嬌に繋がる。つまり読者は、これほど頭のおかしい小説を書く伊月もさぞ変わった思考の持ち主、頭おかしい(誉め言葉)キャラだと思うわけです。

 この冒頭の作中作のおかげで読者は伊月を身近に感じることができるし、伊月は笑っていいキャラなんだと安心して読み進めることができる、というわけです。

 

・『変態王子と笑わない猫。

 これも妹さえと同じです。

 冒頭から繰り広げられる主人公横寺の、女子の水着に関する考察。これがあって横寺も伊月と同じように「ああ、こいつは変態なんだな」とラノベ読者は愛着を持てるわけです。だって完全無欠のイケメンよりも愛すべき変態のほうがラノベ読者は好感持てますよね?僕は持ちます!

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 このように、ラノベ主人公に愛嬌を持たせるべきじゃないか、という僕が今さっき気づいたことでした。もちろん例外もありますし、何をいまさらと思われるかもしれませんが、僕としてはなかなか慧眼だと思ったのでメモもかねて記事に書きました←自画自賛野郎、滅びよ

 それだけです!ではノシ